こんにちは。
私は『多発性硬化症(MS)』と言う指定難病を患っています。
今回は、この病気の話になります。
長くなりますので、お時間と興味があればお付き合い下さい。
難病・多発性硬化症とは?
昔は稀な病気と言われ有病率 は10万人あたり1~5人程度だったものが、現在は8~9人程度と推定され増え続けているそうです。(推定患者数1万2千人程)。
発症は、30歳過ぎ。病気が確定したのは実にその10年後でした。
指定難病、と言うのは『治療方法が確立していなく、長期の療養を必要とする疾患』です。
この『MS』と言うのは、中枢神経系(脳・脊髄、視神経)の病気で、症状の出方は様々です。
簡単に言えば、【ミエリン】と言う神経のカバーが壊れて、"手足を動かせ"等の電気信号の命令が手足にうまく伝わらなくなる病気です。
余談ですが【ミエリン】は20歳頃までに(中年以降も発達する事を説いている方もいますが。)少しづつ発達するもので、ピアノ練習等の経験でも発達するもののようです(病気に関係がある訳ではありませんが)。【ミエリン】が運動機能・認知機能に影響を及ばすことは確認されています。
ただ、破壊された【ミエリン】が復活することはありません。
脳に病変があった場合は、認知機能にも問題が出る、と言うことです。
私は病気が確定する10年間までで3回再発(入院3回)をしていましたが、診断確定の条件が揃ったのが10年後。それまでは『MSの疑い』のままでした。
確定診断を受けるまで時間がかかるのは、かつては良くあることのようでした。私の場合は3度の入院でも確定診断を受けるまでは、ずっと継続して使う薬などもなかったため、確定診断に至った3度目まで本当には病気を意識せず過ごしておりました。
最近は確定までが短くなっているとの事。現在患者が増えているのは、確定診断が早くなって来たせいもあるのかもしれません。
確定の条件
少なくとも2回発症。複数個の病変が確認されること。また、似たような症状をきたす他の病気でないか検討。
私は2回目の入院時に⬆️について、他の病気も疑われていたようでした。
初めての発症時は、後遺症なども全く無く、薬も使わず症状が収まりました。
初めての発症
引っ越し⇨入籍⇨結婚式⇨新婚旅行と怒涛のような日を終えて落ち着いた頃、腕の痛みを感じていました。元々神経痛持ちで、あちこち痛くなる事があったため、初めは深刻にとらえていませんでした。
消えない痛み
いつもなら痛み止めの薬を飲めばすぐに収まるはずなのに、薬が消えたらまた痛みがぶり返す事が続く。
そして、気づかないうちに腕にしびれまでも感じるように。この時は、受診すべき科が分からず、まず近所の整形外科を受診。温熱療法などを勧められ、しばらく通っていましたが改善せず、痛みを取るためにペインクリニックを受診。見て頂いた先生が撮影したMRIの画像で頚椎に影が写った訳です。
MRIの影
そこで、大学病院の紹介状を書いて頂きました。ただ、この時も科が特定出来ず、ひとまず【整形外科】へ。手術が出来る設備のある大学病院を案内されました。
そこでMRI写真を見た担当医師に『脊髄腫瘍』を疑われ、更に遠くの本院の先生の所まで行くような大騒ぎになりました。
『脊髄腫瘍』であれば、手術は免れず、影は頚椎に見えたため、首から下が不随になる、と言われ、目の前が真っ暗に。
頚椎の影が消える
夫や両親に話し絶望していた所、徐々に痛みが消えたのです。再度MRIを撮ると
なんと腫瘍に疑われた影は何の治療もしないまま消えてしまいました。そこで初めて、整形外科の領域では無いとなり、神経内科に回された訳です。
神経内科で初めて【多発性硬化症】と言う病名を聞く
後遺症なども全く無く、薬も使わず症状が収まりましたが、そこで初めて聞いたのが【多発性硬化症】と言う病名でした。
もちろんまだ血液検査とMRIくらいしかしていなかったため、確定診断のため検査入院をしました。
非常に身体に負担がある、と言う【髄液検査】もしました。幸いな事に、私にとってはそこまで辛い検査ではありませんでしたが、
結局確定に至るような結果は出ないまま、退院をしました。
二度目の発症
その後症状も無く、病院の通院も無く、普通に生活をしていました。
検査入院の1年後に息子を授かり子育てに忙しく、あちこち出かける毎日(1人目で張り切っていたのもあると思います。)
息子が2歳頃に流産をしました(私はこの時の子の生まれ変わりが下の娘だと思っています)。
その後、今度は足に痛みとしびれを感じて、5年前の事を思い出し、前回伺ったペインクリニックに再び紹介状を書いてもらうために受診。
別な近くの大学病院を受診
前回疑われた病名は覚えていたので、自宅に近い方の大学病院の神経内科を予約。
今までの検査資料も全て貸し出して頂いた上での大学病院受診。
症状が強かったため、緊急入院となり、急性期の治療を受ける事に。
初めてステロイドパルス療法を受ける
【ステロイドパルス療法】とは、短期間に大量のステロイドを投与(点滴)して、症状を抑える治療です。
ステロイドを使用したのはこの時が初めてでしたが、ステロイドが非常に強い薬で副作用もある、と言う事を知っていたため、聞いた時は『やらなければいけない治療なのか?』と感じました。以前は何もせず症状が治まったため、余計にそう思ったのです。
その後十分な説明を受け治療の事については理解したものの最低2週間の入院が必要、と聞いてまた青くなりました。授乳は終わっていましたが、子供がまだ小さく長く離れたくない気持ちもあり、なんとか1日早く退院許可を頂きました。
※ステロイドを投与する事で自己免疫力を抑えるため、その後の生活でも風邪やウィルスなどの影響を受けやすいため、特に人混みには行かないように注意がありました。
ステロイド療法後の服薬
幸いな事に、この時も後遺症無く、治ったかに見えました。
『MS疑い』は変わりません。その後はステロイド減薬のため半年ほど薬を飲み続けました。薬も無くなり、徐々に通院の間隔が空いて、その後娘を授かり、同じ大学病院で無事出産。
出産後に発症するパターンが多いと聞いていたので心配でしたがその後すぐの再発はありませんでした。
三度目の発症
2度目の発症から5年間、何事も無く元気に生活していましたが、その頃は家庭外でとにかく大きなストレスのかかる状況でした。
ストレスのある状態が半年程続いた頃、また足に消えない痛みが出て来ました。ただ、この時は、ハッキリ入院の予感があり、逆になかなか病院に行くことが出来ませんでした。
ずっと続きながら悪化する症状に反して、意外と自分では『まだ大丈夫。』と思っていた訳です。
病院に行った時はもちろん、緊急入院でしたが、入院前は、思う通りに足が上がらない状態だったのです。それでも家族以外に異変を気づかれる事はほとんどありませんでした。歩く姿を見なければ、普通に見えるからです。
この時、娘の幼稚園で病気を抱えているお子さんがいて、そのお母さまには、『どうかしたの?』と聞かれた事がありました。子供の体調の些細な変化も見逃さない観察眼が鍛えられていたのかも知れない、と感じました。
病名確定に至る
今回も前回同様緊急入院となり、当然のように【ステロイドパルス療法】を行いました。入院を予想していたので、グッズも揃えて病院へ行きました。
前回と違うのは、私が心から入院を望むほどに休みたかった、と言うことです。
そして、今回は病院に行くのが遅れたせいか、下肢の運動機能に問題が出ていました。
そして、過去の治療の跡と、今回の下肢に通じる脊髄だけで無く、自覚のない病巣もいくつか認められ、確定診断に至りました(複数の病巣が確認されて、確定に至る)。
自覚のない病巣は、脳にもあったのです。脳には直接機能に影響の無い部分があり、そこで出ていたのだろう、と言われました。
初めてリハビリを受ける
この時に、理学療法士・作業療法士のリハビリを受け、その仕事の事を始めて知りました。入院中は、上記の療法士さん達や、看護師さん、看護助手の方たちとのお話は楽しみでしたし、入院中の心の支えであったと思います。
病院に入院をすると、医療がどれ程多くの方の献身によって支えられているのか、と実感致します。病気を持って入院する事で、通常とは性格が変わってしまうような患者様もいらっしゃるでしょう。心配事を抱えている方も。病気の症状で思うように意志の疎通が図れないかたも神経内科の病棟には多いです。
忙しく働く中で、話がなかなか出来ない方に対しても、明るく優しい声掛けをしているのを何度も聞きました。
みなさん少しでも気持ちが和やかになるようにと、言葉をかけて下さるのです。
私も特に今回はリハビリも入った事で、入院は3週間弱にも渡りました。
その長期の入院で、病院で働く皆様への尊敬の念が強くなりました。
小さいお子さんや学生さんが、先生や看護師さんに出会って、その仕事に憧れる気持ちが、私にも分かりました。
入院時の子供達や家族の様子
この時には、子供達二人ともある程度成長しており、特に下の娘は年中~年長へ進級するタイミングで張り切っていたのが良かったかも知れません。自分がお姉さんになるんだ!と言う気持ちで、園の先生方の心配をよそに、落ち着いているようでした。
娘はパパが大好きなので、そのおかげでもあったと思います。
園では、娘を通常登園の前の時間から預かっていただいたり、遅くまで遊ばせて頂いたり。ママ友達にも、沢山。助けて貰いました。今までの入院でも、子供を預かって貰ったり遊ばせて貰ったり、娘のお迎えを手伝ってくれたり、作ったおかずを家に届けてくれたり、入院中に必要な物や時間をつぶせるようなグッズなどを届けてくれたり。
息子は、出産含め母が何度も入院しているため、慣れていたのもありました。この時も普段よりお手伝いをしていたようです。
そして、何より夫は毎日娘のお弁当を作り(私が作らないキャラ弁まで!)、毎日写真を送ってくれました。家事を苦も無くしてくれるのは、本当に有難い事でした。
この時、娘は『ゲゲゲの鬼太郎』におおはまりしていて、その時作った鬼太郎弁当の写真が残っていました。
※片付けは苦手なので、家がゴタゴタはしていましたが(笑)
もちろん、実父母や義父母にも助けて頂きました。
入院をすると、本当に周りの家族に大変な負担をかけてしまいます。大きな心配を残さないようにサポートしてくれる家族には、感謝の気持ちしかありません。
病気を持って感じた事
私が入院中は、個室では無かったので、色んな方にお会いしました。
三度目の入院時は、【神経内科】の病棟に空きが無かったため、初めは別な科の病棟に入院しました。
そこで出会った同じ歳くらいのママさんは、病気のデパートだと言って、何度も入退院を繰り返していました。
私の知らない症状がいくつもあり、それでも、何一つ難病指定にはなりません。もちろんハッキリした原因も不明なので、治る病気でもありません。
そのような方と会うと、自分が治らない病気であっても、確定診断される、と言うことがいかに恵まれた事なのかと実感しました。
【神経内科】の病棟には、長期入院の方が多く、それこそ意志の疎通も図れない状態の方も沢山いらっしゃいます。
私の祖父は【進行性核上性麻痺】と言う病気を患っていました。
進行を止める薬が無く、身体の機能が失われて行く病気です。
まず手足の運動機能から失われ、徐々にお喋りや表情までも失われる姿を見ていました。
運動機能の障害から始まり、進行していく中、自分の意志に反して話すことも出来なくなり、祖父がイライラしている事もありました。
本当に残酷な病気だ、と心から思いました。
病院に行けば、自分は軽い方
自分と同じ病気であっても、それぞれ重症度が違います。担当の先生から見れば、私は軽い方です。
思うとおりに足が動かなかったり、両足が痺れていたり、足の裏の感覚が弱かったりしても、まだ杖無しで歩けます。
山歩きもゆっくりなら行けます。山なら逆に、堂々と杖をついて歩けます。
それでも正直言えば、山登りで後ろの方を待たせてしまう事に罪悪感を感じる事もあります。
『私はこの足で山を歩くべきでは無いのではないか。』と。
それでも、山の心地良さからなかなか離れる事は出来ません。ですので、いつも『転ばないように。大けがしないように。心配かけないように。』と考えています。
もちろん、あまりに混雑している高尾山には登れません。
病気をすると世界が変わる
病気になると、今まで普通にしていた事が普通ではなくなります。
失って初めて気づく身体の機能、ですね。自分の足で何の意識もせず歩ける事や、立ち上がれる事って、本当に素晴らしい事です。ましてや走れるなんて、夢のようです。
ゆっくりマイペースに歩いているご老人の気持ちが分かります。自分の体を支える力が弱くなると、少し何かが当たっただけで足元がよろめいてしまいます。これは、自分の努力だけではどうにもなりません。
若い時の自分が、いかに周りを見ないで歩いていたか、と実感します。良く前を見ないでぶつかられる経験が、ほんの少しだけ不自由なこの足でも、恐怖に感じる事は自分がこうなるまで分かりませんでした(周りから見れば癖に見える程度の足運びですが)。
手すりがある事がどんなに助けになる事か。
普段は大丈夫と思っていても、足場が悪かったり、日によっては足に力が入らずよろめいて、道路で膝をついた事もあります。
普段は杖をついて歩く程ではありませんが、体験しなければ分からない事って、本当に多いです。
それでも、出来る事がいっぱいある
忘れっぽいですが(この忘れっぽさを脳の病変のせいにしたりすることもありますが)、生活に支障が出る程ではありません。
ピアノも弾けます。
最初の発症で、首から下が動かなくなる、と言われた絶望感は一生忘れられません。
足が思うように動かない事にそれ程嘆かずに済むのは、手は支障なく動かせるからです。
ただ病気を境に、行動力が昔より減ってしまいました。でも、これは気持ちの面も大きいです。昔に比べて失われた能力を嘆いていると、行動する事に消極的になってしまいます。
やらないことで出来ない事が増えると、自信も無くなります。
この病気の再発はストレスとも関係があるとも言われているので、ストレスを溜めないように、自分が出来る範囲を広げることで、まだまだ誰かの役に立てるような人間でありたいです。
長々と書いてしまいましたが、
本日も最後までお読みいただき、有難うございました。